理容師 過去問
第49回(2024年3月)
問41 (文化論及び理容技術理論 問1)
問題文
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問題
理容師試験 第49回(2024年3月) 問41(文化論及び理容技術理論 問1) (訂正依頼・報告はこちら)
- 軍服をモデルに国民服が作られた。
- 都会の男性会社員の間で背広上下が普及した。
- 女学生の制服として、セーラー服とスカートが考案された。
- 宮中における大礼服や通常礼服が洋装と規定された。
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この過去問の解説 (3件)
01
明治時代の服装に関する記述のうち、正しいものはどれかについて解説します。
誤りです。国民服は昭和時代に制定されたもので、戦時中の一般国民向けに着用が奨励された服装です。
誤りです。背広上下が普及したのは大正時代以降で、明治時代にはまだ一般的ではありませんでした。
誤りです。セーラー服が女学生の制服として採用されたのは大正時代以降のことです。
正しいです。明治時代には西洋化が進められ、宮中においても洋装が公式に採用されました。大礼服や通常礼服として洋装が規定されたのは、近代化を象徴する出来事の一つです。
正しい選択肢は 宮中における大礼服や通常礼服が洋装と規定された。 です。明治時代は、日本の服装が急速に西洋化される時期であり、宮中の礼装においても洋装が採用されました。
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02
この問題は、明治時代の背景を考えることで解ける問題です。
軍服をモデルに国民服が作られたの明治時代ではなく昭和15年です。
よってこの説明は誤りです。
背広上下が普及したのは明治時代ではなく大正時代です。
よってこの説明は誤りです。
女学生の制服として、セーラー服とスカートが考案されたのは明治時代ではなく大正時代です。
よってこの説明は誤りです。
宮中における大礼服や通常礼服が洋装と規定されたのは明治時代です。
よってこの説明は正しいです。
明治時代に起こった出来事や象徴的な出来事と合わせて覚えることが大切です。
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03
「太政官布告」は理容の歴史においても、断髪令(1871年)と並んで洋風化を象徴する重要な出来事です。
【解説】誤りです(×)
国民服は、明治時代ではなく昭和時代(1940年・昭和15年)に制定されました。日中戦争下の物資不足や戦時体制への移行に伴い、軍服に似たデザインで規定されたものです。
【解説】誤りです(×)
都会のサラリーマン(当時は月給取りなどと呼ばれました)の間で背広上下が一般的に普及したのは、明治時代ではなく大正時代から昭和初期にかけてです。明治時代の一般庶民や会社員は、まだ和装が主流でした。
【解説】誤りです(×)
明治時代の女学生のスタンダードは、「袴(はかま)」にブーツ、リボンというスタイルです。セーラー服が制服として普及し始めるのは、大正時代末期から昭和時代にかけてです。
【解説】正しいです(○)
明治5年(1872年)の「太政官布告」により、それまでの和装の公服が廃止され、宮中での正装は西洋式の大礼服(フロックコートや燕尾服など)と定められました。これが日本の公的な洋装化の始まりです。
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